☆Madameオススメのお涙系韓国ドラマ「春の日」☆ 音楽で身を立てようと思ったが、親の命令で連れ戻され医師に。 でも、病院のニオイが苦手で、患者の視線におびえ、 血を見ただけで吐き気を催すほどの臆病な外科医くん。 でも、ほんとうは・・・・・ お口にチャックしておきますネ♪
昨夜もまた、医療系のドキュメンタリー番組が放映されていましたね。
以前このブログでもお話した心臓血管外科医の渡邊 剛氏も
出演されていました。
そういえば、先週の白内障の手術も、一応チェックを入れてしまいました。
これは、三井記念病院眼科部長・赤星隆幸氏が生み出した
プレチョップ法というもの。なんと4分で終わってしまい、
傷口も1.8ミリというものなので、すぐに目が開けられるようです。
でも、まだ必要ないと思いますが、念のためメモをしてしまいました^^;
ナイフ器機も独自開発されたとか。でも、アジアの貧しい国の
医師でも安価に買えるようにと特許も申請せずに、
今この手術法も世界に広めているらしいのです。
それにしても、この頃テレビや新聞雑誌でカリスマ医師特集が
多いように思いますが、そんなことを思っているのは私だけでしょうか?
今朝の新聞の雑誌広告にも”総力特集 最高の医療”、
”カリスマ医師10人 治療改革”と、バ~ンと大きく載っていました。
そこで今回は、以前読んだ本からこんなお話を置いてみたいと思います。
非医療従事者の方も是非目を通してみてくださいネ。
お医者さん選びも違ってくるかもしれませんよ。^^
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―― 良 医 ――
「私伝・吉田富三 癌細胞ははこう語った」 昭和47年最後の講演「医学の使命」より
医師たるものは、良き医師「良医」でなければならないと思ひます。
良医となる努力が、即ち医師の使命を果たす努力であります。
世人は、医師の良し悪しの評価には絶大ともいふべき関心を
持っているもので、且つこの区別に甚だ敏感であります。
世間は、信頼のできる力量の確かな「良医」、凡庸なる「庸医」、
さらには悪徳医等を区別いたします。「名医」というものを作り出す
のも世間の人々であります。
近世名医伝といった本は、昔から幾種類も作られて居りまして、
決して近頃にはじまったことではありません。名医、良医、庸医と
言った言葉も、随分古い時代からのものだと思います。つまり、
医師の善し悪しの識別に関する世人の強い関心といふものは
何時の時代にも変わらないもので、医師はこの様な一般社会の、
場合によっては世俗の、酷評にも堪えなければならない宿命を
担ってゐるのであります。
勿論この評価には基準の定まつたものがあるわけでもなく、大衆感覚の
総合でありますから、理詰めに追って行けば消えてしまふやうなものでせうが、
この様な区別が、無言の裡(うら)に人の心の中に生きて、強い影響を
持つことも否定し得ない所であります。
ここで思い出すのは、当時癌研の付属病院院長であった黒川利雄の
ことである。温厚で包容力にみちた人格者、それでいて一種きびしい
威厳をもった黒川には神話的な評判があった。彼が病室にはいって来て、
「どうですか」と声をかけると、どんな重症の患者も元気が出るというのである。
「ああ、この先生がいてくれるから大丈夫だ」と、百万の後軍をえたような
気分になるというのである。
富三と黒川は同じ癌研で研究所長と病院長という車の車両の関係にあり、
互いに絶対の信頼をもって畏友として尊敬し合っていた。ここで富三が
「名医」というとき、そのイメージのなかに黒川の姿があったことはまちがいない。
あるとき、こう言ったのをきいたことがあるからだ。
「医者には、俳優の素質も要求されるんだな。黒川さんが名医なのは、
あの人が名優だからだ。舞台に出てきただけで、もう客の心をつかんでしまう。
カリスマがあるんだ。せりふのおぼえがよくったってカリスマのない役者が
駄目なのと同様、信頼感を与えられない医者は失格だ。臨床医は政治家
より大変だよ」
―富三の講演に戻る。
大衆が医師を嗅ぎわけることに敏感といふことと、正確であることは
勿論一致しませんから、途方もない「名医」が大衆の手で作り上げることも
珍しくありませんし、哀れというべき間違った医師の選択が行われることも
少なくありません。併し、全体としては正しい区別が行われて居ります。
これは千年の名画といわれるものは、大衆の目の観賞に堪えてきたものだと
いふ事実と似てゐるやうに思ひます。独善的な自画自賛の絵や、
芸術家同士が仲間褒めで持ち上げた様な絵は、一時は盛名を馳せても、
百年の風雪に堪えることはできず、消えてゆきます。名医はしばしば
流行医との混同が起こり、流行医は消えて行くものですが、
良医は消えません。
芸術家は一般に、これらの点をよく弁して居り、自己の職業が如何に
厳しいものであるかの自覚が行き渡ってゐるように思はれます。その厳しさは、
結局は自己との戦ひであります。生涯自己と戦ひながら名作を残した芸術家の
例は乏しくありません。この点、医師は如何でせうか。
自己の職業の厳しさの自覚が、どれほど行き渡ってゐるでせうか。
殊に現行の保健医療制度の現物給付・出来高払ひという医療報酬取引のなかで、
医師とゐふ職業の厳しさの自覚が、どれほど医師自身の身内から湧き出るものか、
私はかねがね甚だこれを疑ってゐる者であります。
◆ 吉田富三 病理学者
昭和2年(1927) 東京帝国大学・医学部を卒業 内科医開業を念頭に、
医学部無給副手嘱託として病理学教室に勤務。
研究テーマは「唾液腺内分泌」
昭和4年(1929) 父の死去2ヵ月後、佐々木研究所に職を得、研究員として入所
昭和7年(1932) アゾ化合物によるラット肝癌生成に成功。
昭和10年(1935) 研究所を退職
長崎医科大学教授を任ぜられ、赴任前に2年間のドイツ留学
以後、長崎医大教授、東北帝大教授、東京大学教授を歴任
昭和18年(1943) アゾ色素投与中のラットに腹水肉腫発見
長崎系腹水肉腫と命名(1948年、吉田肉腫と改名される)
昭和24年(1949) 癌化学療法の研究体制をつくる
昭和26年(1951) ラット腹水肝癌を発見
昭和28年(1953) 東大教授と第2代佐々木研究所長を兼任
腹水肝癌の自由腫瘍細胞一個による移植成功
昭和34年(1959) 佐々木研究所で腫瘍の冷凍保存を始める
昭和36年(1961) 吉田肉腫移植1000代となる
昭和38年(1963) 第4代癌研究会がん研究所所長
逝去されるまで所長を務める
昭和39年(1964) 日本医師会会長選挙に
「医師の本来あるべき姿、理想を示す」
として出馬するも、敗れる
昭和48年(1973) 肺線維症のため逝去(70歳)
□ ブログ内関連記事
・
「私伝・吉田富三 癌細胞ははこう語った」
・
七夕の夜に癌はこう願う (2007/07/07)
・関連文献・・・医の原点 第6集 良い医療の条件
金原出版 編 集: 高本 眞一(東京大学教授)
6.癌─敵も身の内・父吉田富三と私吉田直哉
(演出家・文筆家)
心は巧みなる画師のごとし/「あゆめ ただあゆめ」/等
□ 参考サイト
研究にご興味を持たれた方は、コチラ↓にも資料(画像)がありますので、
訪ねてみてください。私は途中で引き返してきてしまいました...(チョイ汗)
・科学映像館 追われるガン細胞 (1961) 23分 吉田富三 【監修】
http://www.kagakueizo.org/movie/sds_gan02.html
・東京大学総合研究博物館 デジタルミュージアム展
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/JOSETSU/IGAKU/HOME.HTM
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