*今ではもう市販されていないようなので、この本が私の手元に届くまでの間、仮置きさせていただきますネ^^
「医の心」 心臓移植の条件・・・その1
「医の心」-榊原 仟-(昭和47年・1972年発行)より一部抜粋 P144~P148
昭和42年(1967年)の秋、アメリカの学会で、心臓を移植された後5年半も生きている犬の映画を見せられ、また死後30分たって取り出した人間の心臓が、人口心肺で拍動を続けている映画を見せられた。この時、私は心臓移植がちかいうちに臨床例で行われるだろうと確信した。
そうなると当然、私の研究所でも問題になるだろうから、このような手術を行ってよいものかどうかを考えておかなければならないと思った。まず、仮に自分が心臓病で死に臨んでいて、生きられる方法がこの手術以外にないとしても手術してほしいとは思わない。理由を考えてみても、たいした理由ではなく、ただ他人の心臓をもらってまで生きたくないと思うだけなのである。
そこで、できるだけ多くの人に、同じような質問をしてみた。私のきいた範囲では殆ど例外なしに「否」という答えだった。心臓の移植が安全にできるようになっても、そういう手術で生きのびることに幸せを感じない人が絶対数なのである。しかも、理由ははっきりしないが、ただなんとなく嫌だというのだ。これは人間の本能に基づくものだと、私は考える。なぜ人間の本性としてなんとなく希望しないのか。おそらくはこの手術が人類が存続するために、必ずしも適した処置ではないからだろう。
人間は死ぬべきときに死ぬのがよい。それを無理にのばすのは本人の幸福につながらないだろうし、人類の滅亡を早める原因とも言えるだろう、ということを直感して、こうした手術による延命を皆がきらうのだろう。このような問題や善悪の判断など、論理上の問題は理論では決められない。善とか悪とかいっても時と場合によって変わる。ある民族では「盗み」が悪いとされていても、他の民族では許される。殺人さえ条件によっては、許されたり奨励されたりさえするのである。だから、ある社会の時点で絶対多数の人が直感的に可とするものをよいとするほかはない。
死体の心臓を移植して生命の延長をはかる。このこと自体が善意かは理論では決めれないから、絶対多数の人が支持するならただしいとせざるをえない。私は心臓移植がはじめて行われた時点で、絶対数の人が反対だったから、科学的には可能でも、これは行うべきではないと、当時ある雑誌に次にように書いた。
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「米国の外科学会で人間の死体からとった心臓を対外循環法で振動を続けさせる実験を映画で見た時、私は錬金術者の実験室を思い出した。薄暗い地下の実験室で鳥や犬の死体からとった臓器を煮たり焼いたりして、実験していた錬金術者の姿そのものを私は見たと思って、ぞっとしたのである。
神をおそれぬものとして恐怖されていた錬金術者が、今は姿をかえて現れている。医学の進歩は医学の進歩そのもののためにあるべきではない。人類の幸福のためにあるべきなのは言をまたない。医学の進歩が人類を幸福にしないのならば、それは進歩ではないのである。心臓自身に回復する力が残されており、何日かをとにかく死なさずにすむならば、心臓は回復して健康になれる。その回復を待つ時間の間、一時的に人工心臓や移植した心臓で生かしておくのならわかる。私自身もその目的のための人工心臓は研究している。しかし、自分の心臓に回復する力が残されていない場合に、これを切除して人工の心臓や死体からの心臓をつけて生存を続けさせることは、決してその人を幸福にしないだろう。従って医学の目標として研究されるべきことではないと思う。ビルロート(医の手術を完成させた大外科医。心臓の手術には反対であった)が、"心臓には手を触れるな"と叫んだ時、その言葉を無視して坂をかけおりた人類はついに達すべきところにまで達しようとしている。こうなっては、おそらく誰もがこれをとめることはできまい。必ず実現すると思われる恐るべき時代を目がけてまっしぐらに進んでいるのである。原子力という太陽を手につかんだ人類が原子力の魔力にほんろうされているように、心臓の手術に成功した人類は、医学の本質から離れて臓器移植の恐怖にふりまわされようとしている。
今こそ、われわれ医学者はビルロートの言葉を再び味わって、反省すべき時期に来ているのではないだろうか。人が死ぬべき時に死ねた昔のよき時代を、苦悩にみちた患者に夢見させないためにも。臓器移植の問題ではなく、医学の本来の道を近代の医学は時にふみはずしがちのように思えるから」
その年の12月、予想どおりにバーナード博士が心臓移植を行った。第一例が行なわれると私の周囲には賛成論者が満ち満ちた。新聞の論調はきそってこれに賛意を表した。不思議なことにその第一例が18日で死亡するとともに不賛成論者が多数現れてきた。そして翌昭和43年(1968年)1月にバーナード博士が第二例を行うとともに賛成論が再び新聞雑誌を埋めた。試みに私は周囲の人々にきいても移植賛成者が圧倒的に多かった。それでも私は慎重論であり『臨床外科』」という医学誌に次の要旨の論文を載せた。
「心臓移植の可否を論ずるには根本的に倫理感というようなものが問題となる。倫理というものは理屈で決められるものではなく、その時代、その社会の人々の大多数が正しいと感ずるものを、よしとせざるをえない。心臓移植についても、その立場から可否を考えてみた。ところが手術結果がよい間はほとんどの人が可とし、結果が悪くなるとともに僅々18日の間に否とする考えが圧倒的に多くなり、これには驚いた。このような根本的な問題についての大多数の人の判断が、かくも簡単に変化することに驚きとともに不安を感じたのである。おそらくはマスコミの影響だろうが、こうしたマスコミの時代には、人の善悪に対する判断が非常に容易に変わりうることを発見したのは尊い経験であった。
しかし、...
続き >>> 心臓移植の条件・・・その2
今回は長いので、ここから後は次回にさせていただきますネ^^
いろいろな誤解や、雑音にさまたげられことなく、心臓移植という新しい分野の治療法を一般の人々にも考えてもらいたいと思う。こうした治療法が行われるべきかは、医学の将来のあり方にも関係する大きな問題で、心臓の移植手術だけの問題ではないのだ。
- 『医の心』 あとがき - より( 「心臓移植の条件」についてのみ抜粋 )
「医の心」 榊原 仟(しげる) 著
(昭和47年・1972年発行)より一部抜粋
最初にUPさせていただいた
◇ 「医の心」より、その1 -私の提案-
医師の偏在を防ぎ若い医師の時間と経費との浪費の悲劇を
なくすためにはどうすればよいのか。
続き...をまだ
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◇
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